2012年02月19日
父親と釣り
今日は、15年前に亡くなった父の誕生日だ。
健康であればちょうど70歳で、今頃は穏やかに老後の余暇を過ごしていただろうか。
ボクが今、数ある娯楽の中で釣りを趣味としているのは、
小学生の頃に父親に連れて行かれた何度かの釣りがきっかけだ。
最初に何処に何を釣りに連れて行ってもらったのか、、今ではもうさすがに覚えてないけど、、
今のボクより若かった当時の父は、週末も会社に出なければならない忙しい日々の合間に、
一人息子とのコミュニケーションを取る手段として、釣りというレジャーを選んだのだろう。
父は車の運転が出来る人ではなかったので、当時連れて行ってもらった釣り場はいつも、
自転車か電車で行けるところだった。
釣りといっても今で言うところのいわゆるファミリーフィッシングで、気候の穏やかな季節に
相模川や多摩川のほとりでオイカワ、ハヤ、フナ、江の島の防波堤でサバ、アジ、イシモチ、
金沢八景の橋の上からハゼ、、、などという釣りを父と一緒に楽しんだことを覚えている。
釣れた魚は大抵小魚だった為、持ち帰った魚は母親が唐揚げにしてくれることが多かった。
それでも自分で釣った獲物を食べるということは、その頃の数少ない家族の楽しい思い出の
ひとつだ。
ボクが小学校を卒業してからは、部活や友達と遊びに行くことの方が多くなったので、
休日に父親と釣りに行くようなことはほとんど無くなってしまったのだけど、、、。
小さな印刷事務所で働いていた父は、毎晩自宅に帰ってくるのは家族が寝静まった深夜で、
たまに早く家に帰っても、遅くまで自宅の狭い居間でタバコをふかしながら持ち帰った仕事を
続けることが常だった。
そんな父が44歳の冬、ボクが高校2年生の時に突然、くも膜下出血で倒れてしまった。
今思えば、休みもろくに無い日々の過労が積み重なった結果だったのだろう。
幸いなことに、出血量の割には医者からも“奇跡”と言われたほどに、後遺症が残ることもなく
日常生活が出来るまで回復したのだけど、、、
父は元々肝炎を患っていた為、しばらく続いた脳の治療や投薬などが、結果としてその肝臓に
大きな負担をかけることになってしまった。
くも膜下出血で倒れてから数年が経った、ボクが会社に就職して間もないある日、、
父の肝臓に癌が見つかったことを母からの電話で知らされた。
医者曰く、5年後の生存率は低いと。
癌の告知からしばらくして、治療の為に父は入退院を繰り返すようになった。
最初に父が癌になったと聞いた時は、大きなショックを受けたのだけど、何度か繰り返される
入退院のうちに、当時実家を離れ一人暮らしをしていたボクは、看病を母親に任せたまま、
次第に父に会いに行く足も遠のくようになってしまった。
会社生活に慣れ始めたその頃のボクは、また釣りに夢中になっていた。
休日の度に、少し後ろめたさを感じながらも、実家や父の入院している病院を訪ねることもなく、
釣り場へと車を走らせるのだった。
たまに退院して家に戻った父と会った際、そんな釣りの話しになると、父は羨ましそうに、
“元気になったら、久しぶりに一緒に釣りにでも行こうか、、”などという会話をするのだけど、
それが叶わないことだと知っていたボクは、いつもいたたまれない気持ちになったものだ。
そんな日々が過ぎて行き、また近いうちに何度目かの入院をすることが決まった父と、
久しぶりに実家で家族水入らずの食事をしようと約束をした日があった。
なのに、ボクはその日、友人との予定を入れてしまった。
余命の限られた父と会った後、一人暮らしのアパートに帰る時に感じるやりきれない気持が、
若かった当時のボクには正直苦痛だったのかもしれない。
憂鬱な気持ちで実家に電話をかけ、父に今回は帰れない旨を伝えた時、普段はあまり感情を
表に出さない電話の向こうの父が、少し残念そうに、“そうか、、分かった、、”と言ったその声が
今でも忘れられない。
結局その入院が最後となり、ボクが27歳の初夏の頃、父は病院のベッドの上で亡くなった。
息を引き取る直前、黄疸で濁ってしまった目から涙を流し、もう少しも動かすことが出来なく
なっていた手を誰かに差し出すように、何も無いはずの宙に伸ばしたのは不思議なことだった。
少し前に亡くなった祖母が、父を迎えに来てくれたのだろうか、、、。
悲しみに暮れる間も無く、残されたボク達家族は葬儀の準備をしなければならなかった。
慌ただしくもどうにか諸々の段取りが終わり、ようやくほっと一息ついた頃だ。
病院に残していた父の持ち物の中から、一冊の見慣れない本が出てきた。
それは、初心者向けに書かれた釣りの入門書。
まだそう古い本ではなく、ここ最近に買ったものであるようだった。
その本を手にした時、ボクは父が亡くなってから初めて、心の底から込み上げてくるものを
抑えることが出来なくなってしまった。
父は、病院のベッドで治ることのない病と闘いながら、こんな息子ともう一度釣りに行くことを
そんなにも願っていてくれたのか、、、。
数日後、ボクはその釣りの本を棺に入れて、父と一緒に火葬した。
長かった苦痛から解放され、父が向こうの世界で心ゆくまでゆっくりと釣りをすることが
出来るようにと。
父親に連れられていったあの少年の頃に夢中になった釣りを、ボクは今でも続けている。
そんな息子のinnocent fishing lifeを、父はどこかで見守っていてくれるのだろうか、、、と
魚のアタリも遠のいた水辺で、ぼんやりと釣り糸を垂れる時、、ふと思うことがあるのだ。
健康であればちょうど70歳で、今頃は穏やかに老後の余暇を過ごしていただろうか。
ボクが今、数ある娯楽の中で釣りを趣味としているのは、
小学生の頃に父親に連れて行かれた何度かの釣りがきっかけだ。
最初に何処に何を釣りに連れて行ってもらったのか、、今ではもうさすがに覚えてないけど、、
今のボクより若かった当時の父は、週末も会社に出なければならない忙しい日々の合間に、
一人息子とのコミュニケーションを取る手段として、釣りというレジャーを選んだのだろう。
父は車の運転が出来る人ではなかったので、当時連れて行ってもらった釣り場はいつも、
自転車か電車で行けるところだった。
釣りといっても今で言うところのいわゆるファミリーフィッシングで、気候の穏やかな季節に
相模川や多摩川のほとりでオイカワ、ハヤ、フナ、江の島の防波堤でサバ、アジ、イシモチ、
金沢八景の橋の上からハゼ、、、などという釣りを父と一緒に楽しんだことを覚えている。
釣れた魚は大抵小魚だった為、持ち帰った魚は母親が唐揚げにしてくれることが多かった。
それでも自分で釣った獲物を食べるということは、その頃の数少ない家族の楽しい思い出の
ひとつだ。
ボクが小学校を卒業してからは、部活や友達と遊びに行くことの方が多くなったので、
休日に父親と釣りに行くようなことはほとんど無くなってしまったのだけど、、、。
小さな印刷事務所で働いていた父は、毎晩自宅に帰ってくるのは家族が寝静まった深夜で、
たまに早く家に帰っても、遅くまで自宅の狭い居間でタバコをふかしながら持ち帰った仕事を
続けることが常だった。
そんな父が44歳の冬、ボクが高校2年生の時に突然、くも膜下出血で倒れてしまった。
今思えば、休みもろくに無い日々の過労が積み重なった結果だったのだろう。
幸いなことに、出血量の割には医者からも“奇跡”と言われたほどに、後遺症が残ることもなく
日常生活が出来るまで回復したのだけど、、、
父は元々肝炎を患っていた為、しばらく続いた脳の治療や投薬などが、結果としてその肝臓に
大きな負担をかけることになってしまった。
くも膜下出血で倒れてから数年が経った、ボクが会社に就職して間もないある日、、
父の肝臓に癌が見つかったことを母からの電話で知らされた。
医者曰く、5年後の生存率は低いと。
癌の告知からしばらくして、治療の為に父は入退院を繰り返すようになった。
最初に父が癌になったと聞いた時は、大きなショックを受けたのだけど、何度か繰り返される
入退院のうちに、当時実家を離れ一人暮らしをしていたボクは、看病を母親に任せたまま、
次第に父に会いに行く足も遠のくようになってしまった。
会社生活に慣れ始めたその頃のボクは、また釣りに夢中になっていた。
休日の度に、少し後ろめたさを感じながらも、実家や父の入院している病院を訪ねることもなく、
釣り場へと車を走らせるのだった。
たまに退院して家に戻った父と会った際、そんな釣りの話しになると、父は羨ましそうに、
“元気になったら、久しぶりに一緒に釣りにでも行こうか、、”などという会話をするのだけど、
それが叶わないことだと知っていたボクは、いつもいたたまれない気持ちになったものだ。
そんな日々が過ぎて行き、また近いうちに何度目かの入院をすることが決まった父と、
久しぶりに実家で家族水入らずの食事をしようと約束をした日があった。
なのに、ボクはその日、友人との予定を入れてしまった。
余命の限られた父と会った後、一人暮らしのアパートに帰る時に感じるやりきれない気持が、
若かった当時のボクには正直苦痛だったのかもしれない。
憂鬱な気持ちで実家に電話をかけ、父に今回は帰れない旨を伝えた時、普段はあまり感情を
表に出さない電話の向こうの父が、少し残念そうに、“そうか、、分かった、、”と言ったその声が
今でも忘れられない。
結局その入院が最後となり、ボクが27歳の初夏の頃、父は病院のベッドの上で亡くなった。
息を引き取る直前、黄疸で濁ってしまった目から涙を流し、もう少しも動かすことが出来なく
なっていた手を誰かに差し出すように、何も無いはずの宙に伸ばしたのは不思議なことだった。
少し前に亡くなった祖母が、父を迎えに来てくれたのだろうか、、、。
悲しみに暮れる間も無く、残されたボク達家族は葬儀の準備をしなければならなかった。
慌ただしくもどうにか諸々の段取りが終わり、ようやくほっと一息ついた頃だ。
病院に残していた父の持ち物の中から、一冊の見慣れない本が出てきた。
それは、初心者向けに書かれた釣りの入門書。
まだそう古い本ではなく、ここ最近に買ったものであるようだった。
その本を手にした時、ボクは父が亡くなってから初めて、心の底から込み上げてくるものを
抑えることが出来なくなってしまった。
父は、病院のベッドで治ることのない病と闘いながら、こんな息子ともう一度釣りに行くことを
そんなにも願っていてくれたのか、、、。
数日後、ボクはその釣りの本を棺に入れて、父と一緒に火葬した。
長かった苦痛から解放され、父が向こうの世界で心ゆくまでゆっくりと釣りをすることが
出来るようにと。
父親に連れられていったあの少年の頃に夢中になった釣りを、ボクは今でも続けている。
そんな息子のinnocent fishing lifeを、父はどこかで見守っていてくれるのだろうか、、、と
魚のアタリも遠のいた水辺で、ぼんやりと釣り糸を垂れる時、、ふと思うことがあるのだ。
Posted by ふじ at 18:59│Comments(2)
│雑記
この記事へのコメント
こんばんは
えーと、私の父親も肝臓がンで8年ほど前に他界しました。
2年間で6回の入退院だったかな。
釣りを始めたきっかけも子供の頃の父親との釣りでした。
今でも時々ふっと思い出す事もあります。
お互いに体だけは気をつけましょうね。ガンは遺伝もありそうだし。
恐縮ですが何か似てますね・・・
えーと、私の父親も肝臓がンで8年ほど前に他界しました。
2年間で6回の入退院だったかな。
釣りを始めたきっかけも子供の頃の父親との釣りでした。
今でも時々ふっと思い出す事もあります。
お互いに体だけは気をつけましょうね。ガンは遺伝もありそうだし。
恐縮ですが何か似てますね・・・
Posted by つりつり at 2012年02月21日 21:42
つりつりさん
何だか、自分の父親が亡くなってから、人生というのは
実に儚いものだな、、、と思うようになりました。
仕事や世間のしがらみに追われ、息つく暇もなく流れていく
日々の中で、自分の人生にとって、本当の幸せや大切なものが
何なのかを、つい見失いがちになってしまうのですが、、、
家族と過ごしている時や、水辺で釣り糸を垂れている時、父のことを
思い出しながら、ふと今の自分を見つめ直してしまう今日この頃なのです。
そういう年頃なんですかねぇ(笑)。
何だか、自分の父親が亡くなってから、人生というのは
実に儚いものだな、、、と思うようになりました。
仕事や世間のしがらみに追われ、息つく暇もなく流れていく
日々の中で、自分の人生にとって、本当の幸せや大切なものが
何なのかを、つい見失いがちになってしまうのですが、、、
家族と過ごしている時や、水辺で釣り糸を垂れている時、父のことを
思い出しながら、ふと今の自分を見つめ直してしまう今日この頃なのです。
そういう年頃なんですかねぇ(笑)。
Posted by ふじ at 2012年02月21日 23:02
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